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流れ者のアメリカぶらぶら日記ダラスに住む私が、日々感じたことを書き連ねます。
January 26 チリ旅行(4)チロエ島Viaje a Chile, Chiloeチャカオの教会 アンクーのメルカド
翌日は、チロエ島に行きました。個人ツアーは高いので、ホテルから普通のツアーに申し込みました。 プエルト・バラスからプエルト・モントを通過して港まで一時間。そこからバスごとフェリーに乗って30分。チロエ島の入り口、カチャオに着きます。 すでに船が着く前から、島に二つの塔がある教会があるのが見え、バスは最初にそこに止まりました。トタン屋根を乗せた素朴な教会は、チロエ島最古の教会だそうです。地方の人々の性格を反映した、素朴で質素な作りにもかかわらず、1960年のチリの大地震にも耐えたのだそうです。 ガイドのパウラさんにチリの大地震について質問すると、死者はこの地方では人口が少なかったためそれほど多くなかったのですが、海に面した村や町は壊滅状態になったところもたくさんあったということです。 ハワイのヒロの地震博物館には、1960年のチリ大地震の津波による被害の記録が展示してあります。津波は地震発生後15時間にヒロに到達し、その被害は甚大でした。さらに、さらにこの津波は日本をも襲い、多くの方が亡くなりました。地球の反対側の地震によって、ハワイや日本にまで被害が及んだのですから、その破壊力がいかに大きなものであったか想像できるというものです。 そこからAncudのメルカドに行きました。素朴な市場には、チーズ・海産物・手編みのセーターなどが売られており、私にぴったりの手編みのセーターが8000ペソ(約2千円)だったので買いました。 Ancudで古い要塞を見、その上にあるレストランで食事をしました。そこで、同じバスの人たちの意見を聞き、ペンギンを見に行くことになりました。ペンギンはオプションなのですが、バスが一台しかないので、行きたくない人がいると全員が行けなくなります。全員が賛成したので、見に行くことになりました。 Ancudから1時間ほど走り、ピンギネロ(ペンギン・プレースの意味)と呼ばれるプ二フイルに着きました。そこは波が荒いこともわりとあり、そのときは船を出すことができません。私たちが行った日は天気のいい穏やかな日でしたが、夕方になって少し風が出てきたため、船を出す人たちは「すぐに行ったほうがいい」と、私たちをせかしました。 砂浜から船まで少し水の中を歩かなければならず、私はおぶって船まで運んでもらいました。 ここは、フンボルトペンギンとマゼランペンギンがいるところで、片方は南のほうから、片方は北のほうからやってきて、ここで夏を過ごすのだそうです。ペンギンは岩を跳んだり、岸をヨチヨチ歩いていたり、勢いよく水に飛び込んで泳いだりしていました。 ペンギンを見た後は、また海峡をフェリーで渡って帰りました。フェリーからは、オソルノ山とカルブコ山ともうひとつの雪を抱いた山の、3つの山が並んでいるのが見えました。それはあたかも大小3つの富士山が並んでいるように見え、まるで月が3つ出ているような、この世にありえないような、超現実的な贅沢な眺めに見えたのでした。 January 22 チリ旅行(3)プエルト・バラスViaje a Chile, Puerto Varasオソルノ山 カルブコ山 ブエノス・アイレスからチリに戻り、翌朝チリの南部地方、プエルト・バラスに向かいました。サンティアゴから左手にアンデス山脈を見ながら南下します。 空港のあるプエルト・モントに近づくと、雪を頂いた美しい山が見えました。空港からプエルト・バラスのホテルまでは車で30分ほど、その間に運転手と私たちの滞在中の計画について話しました。 この地方滞在中にたいていの人が行くところは、オソルノ火山とチロエ島だそうです。「3日しかいないなら、今日は珍しく天気がいいので、すぐにオソルノ火山に行ったほうがいいです。あしたチロエ島に行きたければそれも手配します」と言いました。 ホテルはヤンキウエ湖畔に建ち、オソルノ山とカルブコ山が絵のようです。チェックインを済ませてしばらく休み、オソルノ火山ツアーに出発しました。 空には雲もなく真っ青に晴れています。雪を抱いたオソルノ山は、見れば見るほど富士山にそっくりです。真っ青な空と湖に映える姿は、いくら見ても見飽きません。あまりに美しいので、夫と二人であきれるほどたくさん写真を撮りました。 湖岸を走って、ペトロウエと言うところで、急流の川を見ます。どうどうと流れる深緑の水と真っ白な泡がたち、その後ろにオソルノ山とカルブコ山が聳えています。これも実に絵になる眺めです。 ものすごく美しいのですが、実はここには親指ほどもある巨大な虫がいたのです。ペトロウエという名前も「ペトロのいるところ」という意味で、この巨大な虫がペトロなのだそうです。初めはこがね虫の一種だと思って気にしなかったのでが、車から降りるとこっちに向かって飛んできて、体に止まると刺すのです。痛みはそれほどひどくありませんが、巨大な虫が何匹も顔の前をぶんぶん飛び回り、肩や腕に止まって刺そうとするので、そこを訪れていた観光客はみな、体の前で腕や木の枝を振り回し、逃げ回っていました。 山に行く前に、オソルノ山の見える湖畔にあるレストランで食事をしました。今チリは世界最大の鮭の輸出国なのだそうです。10年ほど前に養殖を初め、それが成功して今では一大産業となり、プエルト・モントの10万人の人口の半分は鮭関連の仕事をしているということです。 さらに山のほうに上り、駐車場に車を止めてリフトでさらに上へ行きました。リフトを降りると雪渓のすぐそばで、強い太陽に照らされて雪が強烈に輝いています。ヤンキウエ湖やカルブコ山の眺めが広々と眼下に広がります。 ずいぶん長い間山の中腹で眺めを楽しみ、リフトで降りて100%のイチゴジュースを飲み、ホテルに帰りました。(チリではイチゴをfrutillar と言います。メキシコではfresaでした。食べ物や植物の名前は、同じラテンアメリカでも非常に違うようです。) January 21 Shopping en Calle Floridaフロリダ通りで。 ダラスの有名なショッピングセンターに行ったら、男物の靴が一足500ドルもしました。また、アメリカでは、私の靴や服のサイズはめったに見つかりません。ですから、夫は「ブエノスアイレスで買い物するぞ」と意気込んでいました。 フロリダ通りは、ブエノス・アイレスの中心にあり、大小さまざまな店がひしめくショッピング街です。通り自体はそんなに広くないのですが、その両側に沿って店があるだけではなく、小さなショッピングセンターへの入り口も何箇所もあります。ショッピングセンターと言っても、間口2メートル・奥行き4メートル程度の小さな店舗がたくさん並び、店には人が一人座っているだけのところもたくさんあります。でも、そういうところだから、値引きの交渉もできるし、値段も手ごろなところが多いのです。 地下鉄でトリブナル駅に着き、少し歩くとフロリダ通りの入り口があります。そこには壮麗な彫刻のある巨大な建物があるのに、その前にはごみが積み重なり、ホームレスの人が座っています。これがブエノス・アイレスの現実なのです。 私の足は日本で言うと22センチ、ヨーロッパでは35または34です。ドイツにいたときは靴屋に入って「35ありますか」と聞くたびに「それは子供サイズです」と言われ続けました。 今回もウインドウで素敵な靴を見つけて店に入り、「34か35ありますか」と聞くと、ほとんど即座に「一番小さいのは36です」と言われるところばかりでした。たまに「ええ、ありますよ」と言われると、すぐに試着し、サイズがあえば即買います。何しろサイズがあるだけでも非常に珍しいことだからです。 反対に夫は気に入った靴があってサイズを聞くと、今度は大きすぎて「43はありません」と言われることもありました。でも、気に入ったのを見つけて一足買いました。 その間に、皮製のコートもあれこれ試着しました。これも、小さなサイズはあまりありませんでしたが、いくつかは見つかりました。何軒か試着して、長い黒いコートと短い茶色のコートを買いました。本革の長いコートが300ドル、日本円でも3万円とちょっとです。 こんなに買い物をしたことはこれまでになかったので、ちょっとやりすぎのように思えます。まあ、これから5年くらいは買い物する必要がないので、それならいいかなあ。 January 19 ボカ La Bocaポーズをとるじゅん子さん カミニート アルゼンチンと言えばタンゴ、タンゴと言えばボカです。 ボカは「口」と言う意味ですが、港町ですから「河口」と言う意味ですね。カミニート通りに、様々な色に塗った小さな建物が立ち並び、カフェやレストランではタンゴを歌ったり踊ったりしてお客さんに見せています。私たちが行った日は、気温が38度ですごく暑かったのですが、それでも大変な人でした。 狭い通りをしばらくぶらぶら歩いていると、あるカフェでは本格的なバンドがタンゴを演奏していました。やがてタンゴの衣装を着た、若くてほっそりした女性が出てきて「じゅんこ・もり!」と紹介されました。日本人だったのです。 じゅんこさんは、カフェの店員でタンゴの服装をした男性と一曲踊りました。その後は、お客さんの男性を招いて一緒に踊り始めました。踊り終わるとポーズをとって、一緒に写真に写ります。美しい女性が足を絡ませたりするのですから、お客さんたちは大喜びです。 私たちも席を見つけて座り、年取った歌手の迫力ある歌いぶりや、じゅん子さんの踊りを見ながら、エンパナダを食べ、ビールを飲みました。この暑さの中で激しく踊るのですから、汗だくです。 最後にダンスが終わって客席にお金を集めに来たとき頼んで、じゅん子さんに一緒に写真に写ってもらいました。名古屋出身で、1年半前にアルゼンチンに来たそうです。若くてきれいでタンゴが踊れるとなれば、もてもてですから、もう日本に帰りたくないかもしれませんね。 January 17 5月広場と母たち Plaza de Mayo y madres
この比較的小さな広場は、アルゼンチンの抵抗の象徴です。ホテルの部屋でテレビを見ていたら、「5月広場の母たち」という番組がありました。(チリのテレビ番組はテキサスよりよいと思いましたが、アルゼンチンのテレビ番組はさらによいものでした) 1976年5月24日、アルゼンチンで軍事クーデターが起こりました。その後、反政府とみなされた多くの人々が誘拐され、拷問を受けた挙句ほとんどの人が殺されました。その多くは海に捨てられたともいわれ、家族は子供が戻らないまま、その生死について何ひとつ分かりませんでした。軍事政権下、そのことについて話すこともできず、いなくなった人たちのことを人々は「desaparecidos」、つまり「消えた人々」と呼びました。 お金のある人は国外に逃げ、国内に留まった人はひたすら沈黙して身を守るしかありませんでした。 そうした状況の中で、母親たちは自分の息子や娘に対する愛から、彼らを捜し求め、あちこちの機関に出向きました。何の情報も得られず、ついに1977年4月30日に14人の母親が五月広場に集いました。その後毎週木曜日の夕方、子供の名前を刺繍した白いネッカチーフをかぶり、母たちは白い塔の周りを歩きました。この白いチーフが母の運動の象徴となりました。 母親の数は次第に増え、300人から400人が毎週広場を歩き、静かに政府に抗議しました。番組では、そうした母親たちの何人かは殺されたと伝えており、年老いた母たちが、子供たちの写真を前に歴史を語っていました。 いなくなった人たちはどこにいったのか、政府は今もまだ何も発表していません。 Madres de Plaza de Mayo http://www.easybuenosairescity.com/biografias/madres.htm
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